何ともはや。
N村につづいてこのページの担当になっていたO上が、異動で週プレから少年ジャンプに移るという。
わずか半年ちょっとの担当とは、やけに短い。もちろんO上自身は前から週プレにいたので、短いと感じるのは私ひとりである。
私としては、まだまだO上のおもしろさを理解できるほどにはつきあえなかったのが残念だ。だがこうなったらガンバレとしか、いう他はない。
そのユニークなキャラクターをいかして、ジャンプで大ヒット作を生みだしてくれ。
というところで、ふと思いついたので、マンガの話を書こう。
私の世代は、難しくいうところの「少年週刊誌」創刊にぎりぎりまにあった、という年齢である。
少年週刊誌というと、なんだか少年向けの「週刊ポスト」や「週刊大衆」を想像しそうだが、そんなもんあるわけない。あったらコワい。「『少年ポスト』今週号の目玉は、小学校別給食ベストランキングとミス小学生ヘアヌード」、「『少年大衆』特大号企画、直撃! 全国小学校番長インタビュー、全国制覇への夢を語る」なんてね。要するに「少年ジャンプ」に代表される、週刊少年マンガ誌である。
「少年サンデー」と「少年マガジン」の創刊が一九五九年で、私は三歳。もちろん、この頃、読んでいた筈はない。
少年週刊誌の前に、子供向けの雑誌として王座にあったのが、少年月刊誌である。「冒険王」や「少年」「ぼくら」といった雑誌だった。内容はマンガだけでなく、「世界の七不思議」とか「空飛ぶ円盤の謎」といったような、男の子が胸をわくわくさせるような読み物に加え、小説やグラビアなども載っていた。また、付録が多いのも特徴で、ボール紙で組み立てる飛行機や潜水艦、輪ゴムのピストルや手裏剣などがビニール袋に包まれており、とてつもなく分厚いのがふつうだった。
今この傾向があるのは、「りぼん」や「なかよし」といった、低年齢の少女向けの月刊誌である。
少年週刊誌と少年月刊誌は、しばらくは共存していた。が、やがて、部数において大きく差がでるようになり、週刊誌の黄金時代に突入する。
創刊当時、これらの少年週刊誌は、対象読者年齢を、小学校五、六年生をしていたという。そうなると、一九四七年、八年生まれの、ベビーブーム、あるいは「団塊の世代」の人たちの年齢と一致するわけで、ここには出版社の強かな計算も読み取れる。つまりそれだけ、子供たちの数が多かったわけで、市場として魅力的だったのだ。
この、初期の少年週刊誌を支えたマンガといえば、「伊賀の影丸」などの忍者マンガ、そして「おばQ」や「おそ松くん」といったギャグマンガがある。「伊賀の影丸」を描いていた横山光輝氏は、その前に少年月刊誌で「鉄人28号」を描いているのだ。作風の幅は、「北斗の拳」と「花の慶次」の比ではない。
私自身は少年週刊誌と馴染むのは、実は大学生になってからだった。もちろんそれ以前の、「巨人の星」や「あしたのジョー」などといった大ヒット作を知らなかったわけではないし、「紫電改のタカ」や「サブマリン707」なども読んではいた。だが、毎週、少年週刊誌を買ってもらえる(あるいはおこづかいで買う)といった環境ではなかった。
特に私自身は、小学校の高学年から海外の推理小説にすっぽりとはまりこみ、中学一、二、三年の、もっともマンガを愛読する年齢のときには、「ミステリマガジン」や「SFマガジン」などといった翻訳小説専門の雑誌を読みふけっていた。どうも、あまりかわいげのない奴である。
ところが、大学生になって、「少年チャンピオン」にはまった。はまった理由は、もちろん「がきデカ」である。子供の頃から少年週刊誌を読みつづけてきた大学の友だちが、
「今はこれが一番おもしろいぜ」
といって、ギャグを(「死刑!」とか「んぺとっ」という奴)を真似ていたのに興味を惹かれたのだ。
その頃のチャンピオンは、他にも「ブラックジャック」「マカロニほうれん荘」「ドカベン」といった人気作品がめじろ押しで、今の「少年ジャンプ」のような無敵の時代だった。
だが、それ以前にも、先に書いたように少年マンガを読む機会はあった。床屋であったり、お好み焼き屋や喫茶店であったりしたが、週刊誌ではなく単行本(コミックス)で出会っていたのだ。
前回の原稿を読み返していて、大きなことに気づいた。もちろん私にとってという意味だが。
それは、私が、少年週刊誌を読むようになる大学生以前には、少年マンガとは、床屋やお好み焼き屋などで出会っていた、という件だ。
これは実は、一部において正確ではない。というのは、私は中学時代、一度も床屋にいっていないのだ。
ぼうぼうの長髪にしていたわけではない(長髪は確かに流行っていたが、さすがに中坊で、肩まで髪をのばしている奴は名古屋にはいなかった)。逆で、坊主刈りだったのだ。
私は中学を受験して、私立にいった。そこは坊主刈りを校則に定めていた。両親は、私が入学すると早速、電気バリカンを買ってきた。これで三年分の散髪代が浮いたというわけだ。
おかげで私は三年間、床屋にいくことはなかった。考えてみるとそれによって、数多くの少年マンガと出会う機会を奪われたわけだ。もし当時の大ヒット作である「男一匹ガキ大将」などリアルタイムで出会っていたら、現在の私とは小説観なども変わっていたかもしれない。
このことは、私にとっては、実はすごく大きい問題である。
私がアメリカのハードボイルド小説の翻訳作品と出会ったのが、まさにこの中学時代であった。
アガサ・クリスティやエラリー・クイーンといった作家たちの/本格推理小説/を片はしから読みつくし、そのゲーム性のようなものに飽きを感じ始めていたときに、ウィリアム・マッギヴァーンという作家の「最悪のとき」というハードボイルドに手をだしたのだ。
この話は前も書いたと思うのでくり返さない。ただ、その作品から受けたショックが私を、ハードボイルド、冒険小説へと向かわせ、ついには自分で書きたいと決心するに至ったわけだ。
もしその時期、あれほどに日本中の少年たちを熱狂させた「少年ジャンプ」などのマンガと出会っていたら、当然私自身もその例に洩れる筈はなく、あるいはハードボイルド小説を手にする機会はずっと後になって、小説家、それもハードボイルド小説家になろうとは思わなかったかもしれない。
つまり坊主頭が、私をハードボイルド小説家にしたのだ、なんて。
ちなみに校則に定められていたその坊主刈りだが、私が中学三年生のとき、当時の生徒会が、坊主刈り廃止を決議し、これを学校側が呑む形で、廃止になった。
とはいえ、百年以上伝統のある学校なので、親子二代や三代といった卒業生も多く、そういう家庭では校則では廃止だが父親の命令で坊主頭、という生徒もいた。ひょっとしたら今もいるかもしれない。
ところで、大学時代にようやく少年週刊誌に〝目覚めた〟私だが、その後は、青年誌や少女誌を含めて、アトランダムに読み散らすようになった。
今はもうそれほど熱心な読者とはいえず、買いつづけているマンガ家や、全巻を揃えているコミックスなどもそうはない。
この世界に入ってからはまったマンガを試みにあげると、
「パタリロ!」「カルラ舞う」「バナナフィッシュ」などの少女雑誌系や、諸星大二郎氏、湊谷夢吉氏、大友克洋氏、などの諸作品がある。
で、これとは別の話だが「M・A・T」という、マンガの原作チームがあり私はそこに属している。
この「M・A・T」ができて、十年たつ。現在のメンバーは五名。フルタイムライターというのはおらず、全員が何らかの形で別の仕事をもっている。黒乳首のN君や画家の河野治彦もそのメンバーである。
私自身もこの「M・A・T」で、マンガの原作を何本かやっている。少年週刊誌に連載をもったこともある。
そしてやってみてわかったのは、マンガの原作と小説とは、まるきりちがう、ということだった。
小説、特にエンターテインメントは、ストーリー性が実に重要になってくる。主人公はありふれた人間であってよい。要は、ストーリーの展開によって、彼または彼女が、何を感じ、どう行動にそれを反映していくかを描写するのが大切なのである。乱暴ないい方をすれば。
マンガはちがう。まずキャラクターである。主人公は、完成された人間である必要はないが、第一回を読んだときから読者に、この状況ならこいつはきっとこうやる、と想像できる存在でなければならない。その上で、主人公の行動を絵解きでエンターテインメントに仕上げるのだ。
この方法論のちがいを学んだことは、私が小説を書いていく中で、大きな勉強になった。「M・A・T」は、もちろん今も活動している。