大沢オフィスのスタッフのまるひこと河野ひろみが闘病の末2月5日に永眠いたしました。
まるひの秘書ヒショバナシを楽しみにしてくださっていた皆様ありがとうございました。まるひの記事は、アンケートでも大変ご好評いただいておりました。
まるひファンの皆様、長い間本当にありがとうございました。
追悼の意を込めて、このページを作らせていただきました。
ここに大沢、宮部、京極からの追悼文を載せさせていただきます。
ひろみちゃん
「まるひ」こと河野ひろみさんは、中学時代からの友人、クマキチの妹で、彼女が三輪車に乗っていた頃から私は知っている。
大学卒業後、アパレルメーカー、作詞、コピーライター、そしてティーンズノベルの作家と、なかなか腰の落ちつかなかった彼女に、個人事務所のマネージャーを頼んだのが「大沢オフィス」の始まりだった。
酒と落語とヘビィメタルロックを愛する女子だった。気が強いくせに怖がりで、オフィスを作って最初の「ダイエット合宿」で私が10日間東京を離れて勝浦にいくときなど、
「ボス、心細いです。早く帰ってきて下さいね」
というファクッスをよこしたほどだった。
21年間、彼女は併走してくれた。
思い出は限りなくある。ふつか酔いで、事務所の電話がつながらず、困った編集者から私のところに直接電話がかかってきて、叱ったこともあった。
直木賞を受賞した晩、通知の電話を最初に受けたのは彼女だった。
「大沢オフィスです」応えて、相手の声を聞いた瞬間泣き出してしまい、はらはらしていた私にVサインを掲げながら受話器をさしだした姿は、忘れられない。
この何年かは病気がちだったが、「大極宮」を訪れて下さる皆さんに、ちょいと辛口に作家の横顔を紹介する「まるひ」のコーナーは支持されていた。
ホームページ上では、「大夫」と私を呼んでいたが、面と向かっては「ボス」だった。
私はひろみちゃんと呼んでいたが、彼女の「ボスぅ」と呼びかける声を、何千回聞いたろう。今この瞬間も、その響きをはっきりと思いだすことができる。
ありがとう。本当にありがとう。
君がいてくれたからこそ、私はこうして小説家でいられる。
失った今、つくづく思っている。「大沢オフィス」の始まりは、君だった。
宮部さん、京極さん、そしてスタッフたちと、君の残してくれたものをこれからも長く守っていこう。
私にできるのは、書くこと。それだけだ。
見守ってください。そして心から冥福を祈っている。酒も煙草も、そっちでは解禁だぜ。
二人で一緒に、可愛くてちょっとイジワルで手強いおばあさんになろうと約束していたのに、ひろみちゃんが先に逝ってしまいました。私はこれから、一人でおばあさんになっていかなくてはなりません。
20年分、思い出があります。亡くなる前に、たくさん思い出話をしました。
今は辛くて寂しいばかりです。でも、私がいつまでも悲しんでいると、いちばん心配するのはひろみちゃんなので、しっかりしなくてはと思っています。
まるひの秘書ヒショバナシを通して、ひろみちゃんと親しんでくださった皆様に、心よりお礼を申し上げます。ご厚情をありがとうございました。
僕が大沢オフィスに入った時、ひろみさんは既に敏腕マネージャーでした。その頃、仕事の断り方すらわからずに電話の応対だけで声を嗄らしていた僕は、サクサクと案件をさばいて行くひろみさんを横目で見て、どれだけ安堵したことでしょう。いまでこそ大所帯になってしまいましたが、当時事務所にはひろみさん一人。僕にとって長い間、大沢オフィスというのは、ひろみさんのことだったのです。
いや、今でもそうなんです。
ヘビメタ好きで落語好きでドクロ好きで、何より小説好きで、結構趣味領域がかぶっていたので、本当ならもっと底抜けにバカな話をして肚の底から笑わせてあげたかったんですが、あんまりできないでいるうちに、あっという間に十数年が過ぎてしまっていました。そして、突然ひろみさんは逝ってしまいました。ちょっと早いんじゃないですか。いずれ茶飲み友達のクソジジイになって、うんとバカな話をしようと思っていたというのに、残念でなりません。
でも僕は諦めてはいません。
いずれそっちに行くまでネタを溜めておくので、それまでゆっくり読書でもしていてください。
僕たちは、ひろみさんが好きだった小説を書き続けますから。
これまで大極宮をささえてくれていた河野ひろみは、これからもきっと、今までと同じようにささえ続けてくれるはずです。
大極宮をご覧いただいているみなさまも、今後とも変わらぬ御愛顧の程、よろしくお願い申し上げます。
何から話せばよいのでしょう。
いま、事務所の中をぐるっと見渡しただけで、備品を見ただけで、たくさんの思い出やエピソードが浮かんできます。大沢オフィスの立ちあげからもう20年以上…。
最初は大沢さんの個人事務所。まるひが事務担当、クマキチが二次使用担当、私が遊び担当(当時、レジャー部長なんて言われていました)。
はっきり言って業務のほとんどはまるひが担当。事務所として借りた狭いワンルームで、慣れない仕事をひとりでひたすらこなしていました。
その後、宮部さん京極さんが加わり現在のかたちになったのですが…それだけでも出版界にはめずらしいマネジメント会社なのに、なんとその三人がみんな直木賞を受賞するという奇跡がおこるわけです。その奇跡のユニット「大極宮」を支えていたのは…まるひ。
なかでも10年以上続いた「週刊大極宮」は、毎週金曜日の更新でなかなか大変なものでした。京極さんの更新原稿のメールが届くのをふたりでジッと待ったり…(あっ、京極さんの名誉のために言っておきますが、深夜まで待たされることは数ヶ月に一度で毎週ではありません)。でも深夜まで待ったときはそれはもう内容たっぷりの長文で、読んだあとふたりして爆笑したものです。
「これは更新を待っていた人も喜んでくれるでしょう」とアップの作業を進めつつ、「日付が変わってもまだ25時の金曜ということで…」が合言葉。なんだか懐かしいです。同僚というより戦友みたいな感じでしょうか。毎週金曜はまさに戦いでしたから。
昨年12月に入ってから、目に見えてまるひの体調が悪くなっていきました。でも仕事が張り合いだったのでしょう。首や足が痛くなっても杖をついて出社していました。
作家やスタッフが意外に知らなかったことに靴の高さがあります。数年前の大きな手術の後、脚のバランスが悪くなり片方の靴のかかとを3〜4センチ高くして履いていたのです。これでずいぶん歩行が楽になるんだと、笑いながら見せてくれたことがありました。こっちは笑えませんでしたけど…。
ブログにグミのレポートがあります。あのレポートをアップした後、グミを食べていてノドにつまらせたこともありました。本人は笑ってごまかしていましたが…これも笑えませんでしたよ。ほんとに。
まるひ最後の仕事は、リーディングカンパニーのレポートです。
公演のときも体調は悪かったのですが、自分の目で観ないことにはレポートは書けないということで、無理をしてリハーサルも公演当日もスタッフとして参加。さすがに以前のように受付を担当することまではできませんでしたが、楽屋や舞台裏でしっかり取材をしていました。
レポートで使っている写真は、数百枚ある中からまるひがひとりで選んだもの。写真のコメントも全部まるひ。回収したアンケートに目をとおし、いくつか抜粋しています。すべてまるひが独りで作ったものです。渾身の作です。面白くできていますよね。
いま私の席の向かいにあるまるひの席には花が置いてあります。その席で、年内にレポートをアップして公演を観に来れなかった方に早く読んでもらいたいと、体調が悪いのをおしてがんばって作ってくれました。未読の方、ぜひ読んでみてください。しんみりとは読まないでくださいね。楽しい公演を楽しく伝えようとしたレポートですから、笑いながら読んでください。
まるひはいつも大極宮ラーを楽しませることを考えていました。というよりも…まるひが誰にも負けない大極宮ラーでした。読者のために、読者がイチバン。その志は我々残されたスタッフが継承しなくてはなりません。
「まるひ」こと…河野ひろみさん。
仕事に対しても、病との闘いに対しても長くがんばりましたね。ほんとうにお疲れさまでした。いつもさりげなく気遣いの言葉をかけてくれたひろみさん。どうもありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。
ひろみさん
ひろみさんとの思い出は数えきれないほどありますが、ここ数日で急に思い出したのがひろみさんと初めて会った日のことです。
これから大沢オフィスにお世話になるという時のこと。一応面接というか顔合わせというか…とにかく一度お会いしましょうということになり、ひろみさんが指定した場所はなんと、当時事務所が入っていたマンションの1階にあった居酒屋さんでした。
有名な小説家の先生方の事務所ということで、やたらに緊張していた私でしたが、居酒屋の雰囲気とひろみさんの「わっはっは!」の笑い声で、たいそう緊張がほぐれていきなり気の合う先輩と女子会をしているような夜になりました。
あの日のことをを思い出すと、ひろみさんらしいというかなんというか。とにかく懐かしさと寂しさで胸がいっぱいになります。
あれから12〜13年。いろんなことがありましたが、ずっと机を並べてお仕事させていただきましたね。ありがとうございました。
メタルとドクロとお酒がトレードマークで、何より小説が大好きだったひろみさん。
どうぞ向こうで思いっきり、ヘッドバンキングしちゃってください。
初めて会ったのはいつだったか、いまとなっては定かではありま せんが、記憶として残っているのはオフィスを立ち上げた時。 お祝いに何がいいかと訊ねたら、「電気ポット」ということだったので、早速届けました。まだ、窓も小さい薄暗いワンルームマンションでした。
それから月日がたち、出版社を辞めた私はオフィスでお世話になるこことになり、10数年ぶりに訪ねたオフィスで、まだ使ってるのよと、まるひさんは笑っていました。
オフィスで一緒に仕事をすることになった彼女は年下ではありますが、ちょっと怖い先輩でした。
ここ何年かは病気との戦いでしたが、弱さはみじんもみせずに頑張って生きようとしていました。生き方を教えてもらったと思っています。
いまはただ、ゆっくり休んでください。
おつかれさまでした。
まるひさんは、私の良き上司であり良き理解者でありました。
もともとただの飲み仲間だった私を大沢オフィスに誘い入れてくれたのもまるひさんです。
周囲に気を遣い闘病中辛そうな顔ひとつ見せない人でした。大沢オフィスの母のような存在でもありましたね。ただただ感謝の言葉しかありません。きちんとお礼が伝えられなかったのが残念です。あまりにも急に逝かれてしまって、まだあまりよく現実味がないんですよ、まるひさん。
今は仕事のこと忘れてゆっくり休めていますかね。
いつとは約束できませんが、またゆっくり飲みにでも行きましょう。