特別企画

宮部みゆき「三島屋変調百物語」を語る

怖くて可愛い江戸怪談小説『あんじゅう 三島屋変調百物語事続』

『ダ・ヴィンチ』(KADOKAWA)2010年10月号より

 神田にある袋物屋・三島屋の行儀見習い、おちかのもとを訪れるお客たちは皆それぞれ、胸に不思議な物語を仕舞っている。恐ろしい話、不気味な話、哀しい話。三島屋主人の伊兵衛が始めた<変わり百物語>の趣向によって、深い傷を負っていたおちかの心は少しずつ変化してゆくのだった。  
 最新刊『あんじゅう 三島屋変調百物語』は、『おそろし 三島屋変調百物語事始』に続く<三島屋変調百物語>シリーズの第2弾だ。奇怪な事件を通して、江戸時代に暮らす人びとの心模様をじっくりと描き出す『あんじゅう』は、宮部みゆきの新たな代表作として新聞連載時から大きな反響を呼んでいた。

取材・文:朝宮運河

宮部 「連載中、あんなにたくさんのお手紙をいただいた作品は初めてです。『終わってしまって淋しい』というお便りには、ぎゅっと胸を締め付けられるような気がしましたね。作者としても、とても楽しんで続けられた仕事。あんまり楽しかったので、今ちょっとした虚脱状態です。今年後半は何にもしないで過ごそうかしら(笑)」

── 『あんじゅう』の新聞連載を開始するにあたって、宮部さんは南伸坊さんに挿し絵を依頼した。もともと宮部さんは『李白の月』『仙人の壺』などの南さんの志怪作品(中国の怪異譚)の大ファンであった。前作『おそろし』からさらに踏み込んだ<三島屋変調百物語>の世界を描いてゆくうえで、南さんの愛らしいイラストは重要な役割を果たしたという。

宮部 「2作目のテーマとして、おちかに信頼できる友だちを持たせてあげたい、というのがあったんです。南さんはおちかを取り巻く人びとを明るく、魅力たっぷりに描いてくれた。おかげで作品の方向性がよりはっきりしました。そうか、こんなキャラクターだったんだ、とわたし自信気づかされる点も多かった。特に第三話に登場する物の怪<くろすけ>は、南さんのイラストにかなり影響を受けているんですよ。もちろん読者の方にも大好評『挿し絵を切り抜いて保存しています』という嬉しいお便りもいただきました。南さんに挿し絵をお願いして大手柄だったでしょう、とあちこちで自慢しているんです」

 便りになる友達が登場

── 今作、おちかが聞き手を務めているのは第一話「逃げ水」、第二話が「藪から千本」、第三話「暗獣」、第四話「吼える仏」の4つの物語。おかっぱ頭をした淋しがりの神様<お早(ひでり)さん>が登場する「逃げ水」や、空き家に棲みついた真っ黒い物の怪<くろすけ>が登場する「暗獣」のように、読む者の心をほっこりと和ませる優しい怪談に特徴がある。

宮部 「シリーズを始める時点で、奇数巻ではシリアスなもの、偶数巻ではちょっと脇に逸れたユーモラスなものを書いていこうと決めていました。おちかの身に降りかかった不幸な事件については、この先もフォローし続けなければならない。でもそればかりだと読む方も書く方もしんどいでしょう。シリアスとユーモラスを交互に書いていきたいなと思っているんです。今回は特におちかの周辺にスポットを当ててみました。新たに登場したキャラクターは、今後もレギュラーとしておちかの助けになってくれるはずですよ。

── 一方で、等身大の人形に縫い針が突き刺さっている、という怪現象を描いた「藪から千本」、不気味な木仏を崇拝する村人たちの姿を描いた「吼える仏」など、恐ろしいエピソードももちろん収録している。

宮部 「『吼える仏』は宗教のもつ恐ろしい画を描いたもの。行然坊というキャラクターの回想談という形をとったお陰で、それほど陰惨な話にならずにすみました。行然坊は自分でも気に入っているキャラクターです。一番苦労したのは『藪から千本』ですね。一見幸せそうに見える家庭が実はどろどろしたものを抱えていて、それが怪しい現象を引き起こしている。どこまでが現実でどこまでが嘘なのか、聞いているおちかにもはっきりとしない、という曖昧な感じを出すのが大変でした。お勝という女中が三島屋にやって来る部分が実はメインなので、怪談としては変化球的なものになっています。最後の最後でやっと幽霊を出すことができて、ほっと胸を撫で下ろしました」

挿し絵を描きたいと言われるシリーズに

── 巻末にはおちかを取り巻く人びとが賑々しく集合する〝エピローグ〟が収められ、読後感をより明るいものにしている。しかし、百物語はまだまだ始まったばかり。おちかの人生はこの先どうなってゆくのだろう? シリーズの今後の展開を少しだけ明かしていただいた。

宮部 「おちかは少しずつ成長し、大人になってゆきます。恋もするし、お見合いもする。結婚もします。おちかという一人の女性の人生行路を丸ごと描いてみたいんです。『おそろし』に登場させた土蔵の<番頭>は、人間を誘惑し、堕落させようとする西洋の悪魔のような存在。しばらくすると、またおちかの前に姿を現すことになります。ただ、そのときはすっかり姿を変えているので、なかなか正体が分からないかもしれませんね」

── 百物語の完遂を目指して、これからも意欲的に書き継がれてゆくであろう<三島屋変調百物語>。宮部さん自らライフワークと公言する本シリーズは、生きることの喜びと悲しみを、百物語を通してあますところなく描いている。

宮部 「主要キャラクターは出揃いました。媒体さえあればどんどん書いてゆきたい。月刊誌、週刊誌、新聞、一度くらいは書き下ろしもやってみたいですね。挿し絵は一作ごとに違ったイラストレーターさんにお願いするつもり。『宮部の<三島屋>シリーズに挿し絵を描いてみたい』と言われるようなシリーズに育ててゆけたらいいですね」

本とは違った楽しみのあるアプリ

── さて、『あんじゅう』は宮部作品としては初となる、電子書籍版が発売されたことでも注目を集めている。8月13日(2010年)に発売されたiPad専用アプリケーション『暗獣』は、単行本から「序変わり百物語」と第三話「暗獣」を収録。画面に触れたり本体を傾けたりすることで、南伸坊さんのイラストがさまざまな動きを見せるという、新しい感覚の電子アプリだ。電子版発売の経緯についてもお話をうかがった。

宮部 「やっぱり小説は紙の本で読みたい。パソコンやiPadだと眼が疲れてしまって、長時間読み続けることができないんです。自分が苦手なことを読者の方に強いるのはどうかな、という思いがありました。今回作っていただいたiPad版の『あんじゅう』は単行本とはまったく違ったコンセプトの商品。南さんの挿し絵に触れて、楽しんでもらうのが第一です。挿し絵のどこが動くのか、手探りで見つけてゆくゲーム的面白さがある。わたしの作品はあくまで素材のひとつにすぎません。『ところで、これってどんな小説なの?』と気になった方は単行本を読んでいただきたいですね。

── 紙の本と電子書籍はあくまで別物。電子書籍の普及によって、紙の本の読者が増えてゆくことを宮部さんは期待している。

宮部 「現代ものに比べて、時代小説は敷居が高いと思われがち。こういう楽しいアプリがあれば、若い読者も時代小説にすっと親しみを感じてくれるかもしれません。興味をもったら是非一度書店に足を運んでみてほしい。今は時代小説が大豊作の時代。素晴らしい作品がいっぱい並んでいますからね」

── 今も書店には頻繁に足を運び、「家族に呆れられるほど」の本を購入しているという宮部さん。本と書店をこよなく愛する立場から、書店を置き去りにしつつある電子書籍の有り難には疑義を呈した。

宮部 「電子書籍といっても本は本。書店さんにも利益が出るような流通システムであってほしい。出版社は本を作るプロ、書店さんは本を売るプロです。出版社さんに作ってもらって、書店さんに売ってもらう。この流れがしっかり守られない限り、わたしが本格的に電子書籍に乗り出すことはないと思います。毎日やって来る新刊書籍の山で、書店員さんはとてつもない重労働を課せられている。電子化が進むことでそれが軽減されるかもしれない。紙の本と電子書籍、それぞれの長所を活かして共存してゆくことができればいいですね。理想論かもしれませんが、そう思っています」

── 見せていただいたiPad版『暗獣』は、おちかたちが暮らす作品世界をぐっと身近に感じさせてくれる楽しいアプリケーションだった。単行本を読んでおちかやくろすけのファンになった方は是非一度、電子版も体験してみてほしい。また、電子版ではじめて宮部ワールドの豊かさに触れた方は、きっと単行本も手に取りたくなることだろう。紙とデジタル、異なったそれぞれの特性を活かして『あんじゅう』の世界は広がっている。

『あんじゅう 三島屋変調百物語事続』

『あんじゅう 三島屋変調百物語事続』

宮部みゆき
角川文庫 820円

三島屋の行儀見習い、おちかのもとにやってくるお客さまは、みんな胸のうちに「不思議」をしまっているのです。ほっこり温かく、ちょっと奇妙で、ぞおっと怖い百物語のはじまり、はじまり。